入院第4日(窮地) [2005年9月7日(水)]

そう言えば昨日はこの病室を訪れる人が悉く「この部屋寒いね」と言っていた。咳を何とか堪えながら思い出す。冷房の温度を調整した方がいいのかもしれない。

 

病室の空調は病院側の一括管理だと勝手に思い込み、これまで一切さわろうともしなかったのだが、病室にコントロールパネルが付いているのを見つけたので自分で27度から28度に空調の設定温度を調節した。

 

眠気はないが眼が眠くてたまらない。開けていられなくなる。眠れなくてもせめて眼を閉じるだけでもしておこう。そうしていると、浅く短く、少しだけ眠った。夜が長かった。

 

朝一番の検温でも「No fever」(熱はないよ)ということだったので、風邪はひどくはないのだろう。でも「喉が痛い」と看護師に言っておいた。ほんとうは「痛い」のではなく「いがらっぽい」のだが、それを英語で何と言うのかぼくは知らない。

 

後からやってきた別の看護師が「喉の痛みは2日経ったら治る」と言った。処置は何もして貰えず。確かに2日後には治っていた。

 

それほどしんどいつもりもないが、朝食は粥でさえ喉を通りづらかった。

 

喰いきれない臓物粥

 

粥に入っているのは臓物。元気なときならよろこんで喰っただろうが、ほかの生命を、生命を営む臓物を取って喰うだけの元気がなくなっている。口に入れて咀嚼してみるが、身体が受け付けない。粥の米の部分だけを何とか流し込んでみるが、全部は喰えなかった。

 

1日の日程で言えば、朝食の次には清拭が行なわれる。看護師が急勝だったのか何かの都合でそうなったのか、朝食が運ばれて間もなく入院着を持った看護師が入ってきた。

 

彼女は早口の英語で何ごとか食事中のぼくに言ったが、ぼくは英語を聞き取るのが巧くない上にそんなに早く喋られても頭の中で日本語に変換するまでは意味が判らない。だから返事はいつも一拍遅れる。

 

それが焦れったかったのかこの日は特に機嫌が悪かったのか、彼女はもう1回同じ内容を喋って、手でベッドの柵を叩きながらきつい口調でこう付け加えた。

 

「Understand me ?!」

 

それはやけにはっきりと聞き取れて、ぼくには「判ってんのんかい!」という関西弁に思えた。そんなに怒らなくてもいいじゃないか、と思ったがそれを直ぐに英語に直せるほどぼくは巧く喋れないし、もし喋れたとしても言う隙もないくらいに彼女はさっさと出て行ってしまった。

 

「食事が終わったらナースコールを鳴らせ」と言っていたから、取り敢えずは食事を済ませようとしたが、先に述べたように喰えなかった。喉が詰まるような感じだ。

 

せめてデザートのケーキをオレンジジュースで流し込んでカロリーを摂っておこうとした。喰えないのは身体が弱っているせいだろうし、気持ちまで弱ってきたみたいだ。こういうときこそ喰わなければならないのだと自分に言い聞かせる。そうして飲み込んだオレンジジュースの酸味さえ身体につらかった。

 

改めてナースコールを鳴らすと別の看護師がひとりでやってきて清拭とシーツ交換をしてくれた。呼び出してひとりでやって貰ったのがとても申し訳ない気がして、ぼくは何度も有難うを言った。

 

この病院に入ってから、ぼくは「自分の言葉」を話していないように思う。先刻の「有難う」も、ほんとうにそう思ったからそう言ったのだけど、気持ちが入っていないように自分で思える。随分魂のない言葉を沢山吐いたと、悲しくなった。話したことと言えば看護師たちの質問への答えだけなのだけど、「型通り」の言葉しか口にしていない。

 

巧く聞き取ることも話すこともできないために、話し掛けることや話し掛けられることが億劫になってきている。よくない。非常によくない。持病の鬱病が顔を出しはじめている。

 

日本語を書くことでなら、大抵のことは伝えられる自信はあるのに。

 

清拭を終えて落ち着くと、下腹がきゅーっと引き絞られるように痛くなってきた。これは、間違いなく便意。素早く移動できないのでよたよたのろのろとトイレに向かう。出てほしいけど辿り着くまでは出ないでくれと胸の奥で御願いしながら。

 

すわると僅かに力むだけで排出。何たる解放感。倖せ……!

 

やや軟便で通常便より排出しやすい。出しづらい状況にあることを察知して調整したのか。偉いぞおれの身体!

 

まだおれはくたばっていないぞ。おれは生きているぞ。そう思えた。

 

トイレから出てそのまま室内歩行。昨日よりも少しだけだが早い調子で歩けるようになっている。痛みもましだ。歩いて動くことはできるから、近所に買いものに出ることくらいはできそうだ。退院してホテルに入ったら、必要な買いものと散歩だけに出て、あとはこもっていようと思った。誰かと顔を合わせたり口を聞くのはうっとうしくて、できるだけ避けたいとさえ思う。

 

昼食を摂ったら退院だ。それまでは魂のない言葉が身体から出ていくことにも耐えよう。部屋の中を何周も歩きながら、そう考えていた。

 

昨日よりも身体は疲労を強く感じているし、気持ちも脆くなっていて強く突っつかれたら崩れてしまうだろうことが誰に示されなくても判る。食事が喉を通らなくなったのは身体を切って体力が落ちたせいばかりではないのだとぼくは認めてしまった。

 

手を付けられない昼食

 

昼食が運ばれてくるが空腹感も食欲もなく、喉が締まるような感じがして喰う気にならない。それでも喰わなければならないと思い、きっちりと被せられたラップに手を掛けてはみるが、それを剥がないうちから漂ってくる匂いだけで気分が悪くなってしまう。

 

昨日通訳女史に洋食に変えて貰えるように頼んだが、これもどう見てもタイ食。洋食なら多少は喰えたのだろうかと、皿を眺めながらぼんやり考えた。

 

もう直ぐ。

 

もう直ぐ退院できる。ホテルに着いたらコンビニエンスストアに行こう。カロリーメイトのような流動食でもあればそれを買って流し込んで何とか栄養を摂ろう。何も喰わないよりはずっとましなはずだ。ベッドに横になって迎えを待った。ガイドのM氏が迎えに来てくれるはずだった。

 

午後に差し掛かる頃に看護師が来て、間もなく病室に備えつけられている電話が鳴った。看護師が受話器を取って、直ぐにぼくに差し出した。どうやらぼく宛ての電話を外線で受けていて、こちらにまわすために彼女は来てくれたようだ。

 

受話器を受け取るとM氏の声が聞こえた。
「退院は明日です。今日は医師がいないので」

 

そうですか、と言うしかない。自分の身体が一気に重くなったような気がした。

 

取り次いでくれた看護師に礼を言って、ぼくはベッドにぐったりと沈んだ。あと1日、この病院にいることを我慢しなければならない。だが「明日退院」と確かに聞いた。24時間後には迎えに来てくれるということだ。時計の針が2周すれば。壁に掛けられた時計を見る。SEIKOの時計だ。

 

病室に置いてある電化製品は何れも日本製だ。TVはPanasonic、電気ポットはSHARP、冷蔵庫はNationalの製品。時計はSEIKO。自分ひとりだけで病室にいるなら外国にいるとは思えない。

 

日本にいるのと大差ない環境なのにつらく感じるのは、身体と気持ちが弱っているせいなのだろう。考え続けると余計に気持ちが弱っていきそうだから、ほかのことを考えようと思うが巧くいかない。眠ってしまえれば何も考えずに済むのだがあいにくぼくは不眠症を持っていていまは眠剤を服めない。

 

実を言うと、眠剤は持っている。かかりつけの心療科では処方を止めて貰っていて「いつもの」眠剤は手許にないが、近隣の内科医で寝つきが悪い人に出している軽い眠剤を、或る人から譲って貰って持参している。

 

1シート10錠。残り滞在日数を数えて、今日の夜から服もうと思った。身体の治癒を妨げるかも知れないという恐怖心がないではなかったが、多少のことがあっても眠れないよりはましだ。

 

喰いたいけど喰えないおやつ

 

ぐったりしているとおやつが来た。タイの果物は想像を越えた旨さだから何を置いても喰ってこい、と複数の人に言われてきたが、喰いたいという気持ちだけはあるが、喰おうという気になれない。紅茶もぼくは匂いが苦手で飲めない。

 

しかし昼食も一ト口も喰っていないし少しでもカロリーを摂らなくてはならないと思い、ウエハースに手を付ける。チョコレートが挟まっていてその甘さは馴染みがある。喰えた。

 

喰うと少し元気が出て、歩く練習をする気になる。室内歩行。速くは無理だが、ゆっくりなら足を上げて普通に歩くことができるようになった。歩けば歩いただけ歩けるようになる。早く回復しようと思う。

 

歩いているとM氏が顔を出してくれた。改めて「退院は明日。昼食を摂ったら着替えて待っているように」との指示を貰う。食事が喉を通らないので洋食に変更して貰えるように頼む。タイの人には悪いがおれはタイ食は喰えない、と思った。

 

清拭の時間には看護師が来てくれたが、断った。人と接触するのが面倒になっていた。

 

地味なタイ食

 

夕食。とにかく喰わなければ身体が保たない。身体が弱れば気持ちも必然的に弱ってしまう。白粥に手を付ける。旨いと思った。いままで喰ったものの中で一番旨い。……もしかすると食事があまり旨くないのは「タイ食だから」ではなく「病院食だから」なのか?

 

四角い揚げものは日本のファストフード店でよくかぐ匂いがした。少しは馴染みがあるように思えるので少しかじってみる。ソーセージを揚げたものか。とても濃い味。これを少しずつかじりながら粥だけは全部喰う。ほかのものは独特の香辛料の匂いを身体が受け付けなくて諦める。

 

粥を腹に収めてしまうと、乱れていた気持ちが幾らか落ち着いた。

 

喰えてよかったと思いつつTVを眺める。NHKが映らないときは「Discovery Channel」かCNNを見ていた。NHKでもCNNでも、日本の台風14号と米国のハリケーン「カトリーナ」のニュースを連日流していて、画面には沢山の水がいつも映っていた。

 

そう言えば、入院の日に一緒に病院に来たFTMくんは帰国の飛行機が台風で飛べなくなるのでは、と心配していた。彼は無事に帰国できたのだろうか。

 

そこに通訳女史がやってきて、同じ病棟にFTMがいるから会いに行かないかと誘ってくれた。ぜひにと案内を御願いする。

 

その彼がいる病室は同じ階の端っこで、ぼくの病室は反対側の端っこだった。広い病棟の端から端まで歩くことになる。人並みの速度ではまだ歩けず、通訳女史に時折立ち止まって貰いながら連れて行って貰った。

 

それでも足を交互に踏み出すのがスムーズになったものだ。昨日は1歩ずつを「よいしょ」と、まるで大昔のロボットのように踏み出さなくてはならなかった。

 

辿り着いた部屋にいたのは25歳のFTMくん。背を起こしたベッドで休んでいる。乳房切除のみを受けたとのこと。胸からドレーンが出ていてベッド傍のプラスチック製の瓶に繋がっていた。訊くと、昨日手術を受けたばかりなのだそうだ。

 

自力で身体を動かすのは難しいようだが表情は至って元気。訪ねてきた看護師にちょっかいを出すくらいだから、身体を切ったダメージもそれほどでもないのだろう。ぼくが手術の翌々日には歩く練習をはじめ、3日後のいま遠くの病室から歩いてきたという話をすると「俺も歩く」と言い出した。看護師に補助して貰ったものの、流石に傷が痛かったらしく断念したけれど。

 

ぼくはタイ到着翌日に入院して直ぐに手術を受けたが、彼は入院前にバンコク市街に出て少し遊んだという話をしてくれた。そこで現地の女の子をナンパしてホテルに「お持ち帰り」したのだという。これが若さか、と旧いアニメーションの台詞のようなことを思った。

 

30分ほど話してお暇する。手術日から1日しか経っていないのだから、あまり長話して疲れさせてはいけない。通訳女史に言って退室させて貰った。

 

同じ国から同じ目的を持って同じ病院にやってきた人と話すのはやはり興味深く、気分が昂揚する。日中はだいぶぐったりしていたけれど、気分よく夜を過ごせた。

 

トイレに立つのもさほど困らなくなった。排尿だけなら何の支障もない。NHKのニュースを見てから日付が変わる頃に、持参した眠剤を服んだ。

 


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