帰国の日 [2005年9月16日(金)]

早めに就寝したら早めに眼が覚めた。早めに起きなければならないからそれでもよさそうだが、少し早過ぎるようにも思う。0330時。もう1回寝入ろうとすると、目覚ましはセットしてあるけれど寝過ごしそうにも思えたので、そこでベッドを降りて風呂に入り、頭をはっきりさせる。

 

身繕いをして、クローゼットに押し込んでいた鞄を戸口の床に放り出す。クローゼットの中に忘れものがないかを指差し確認。

 

手を付けないで置いておいた菓子パンを缶コーヒーで流し込んだ。タイの缶コーヒーは何種類かあるが、どれを択んでも甘い。甘いもの好きのぼくが飲んでも「甘い」と思う。ぼくが販売店で見た限り「ブラックコーヒー」はなかった。甘いコーヒーが苦手な人には気の毒だ。

 

もう少し言うと、缶コーヒーの種類が数え切れないほど沢山あって、しかも路上の至るところに自動販売機が設置されていて何処でもコーヒーが飲める、などという環境があるのは日本だけらしい。確かにバンコク市内の路上で自動販売機を見掛けたことは1回もなかったし、コンビニエンスストアでは缶コーヒーは探さないと見つからなかった。

 

準備をしていると、窓外の空が白々と明けてきた。

 

夜明けのバンコク

 

うつくしい夜明けが窓の外にある。思えば、夜明けがこんなにうつくしい街にいるのに、ぼくはこの街の夜明けをこれまで見ることがなかった。今日がはじめてだ。

 

夜明けは刻々とそのさまを移ろわせて、やがて朝になろうとしている。

 

夜が明けきる前に、ぼくは荷物をすべて抱えてロビーに降りた。日本から背負ってきた鞄は7.3kgと少々重量があって、手術直後はこれを再び背負って帰ることができるのだろうかと不安になったものだが、巧く回復したものだ。

 

空港までは、到着日に迎えに来てくれたガイドのN氏が送ってくれた。搭乗券を貰って荷物を全部預け、ドンムアン空港使用料を支払う。空港使用料は500バーツ。これを支払わなくてはならないので、前日までに手持ちの金銭をすべて日本円に両替してしまわないように注意が必要。

 

出国審査の手前でN氏と別れる。「御世話になりました」とは確かに言ったけれど、その一ト言だけでは伝えきれないほどの恩をぼくは受けてきたはずだ。それなのに充分なことを言えなかったことが少し悔やまれる。

 

出国審査は滞りなく済んで、免税店をうろうろと見てまわった。見るだけ見て何も買わない。街で必要なものは買っているし、わざわざ免税店の高価なものを買う必要もない。

 

だから手持ちのバーツをすべて円に換えてしまおうと空港の銀行窓口に行ったけれど、186バーツ(100バーツ札×1、50バーツ札×1、20バーツ札×1、10バーツ硬貨×1、1バーツ硬貨×6)だけバーツのまま返されてしまう。……何で?

 

搭乗ゲート前のロビーに行くと、ぼくと同じJL728便に乗ろうという人が集まってきていた。ほとんどが日本人。バンコクにいることを忘れるほどの日本語の会話が聞こえてくる。いよいよバンコクを離れるのだと実感が湧いてくる。

 

バンコク発JL728便

 

0850時搭乗、0930時離陸。ぼくははじめて訪れた海外の国を離れた。

 

2回めのフライト。だが、前回のフライトはナイトフライトで窓外は真っ暗だった。今回は空の上が愉しめるだろうか。

 

機体が動きはじめて滑走路へ向かおうとするとき、窓の外を見た。機体の整備に関わったスタッフが一列横隊に並んで、こちらに向いて手を振ってくれている。こういう光景を見られるデイフライトはやっぱりいいなと思った。

 

機内食は鶏そぼろ御飯と白身魚のタイ料理が択べる。魚を択んだ。ぼくがはじめて食べた「まともなタイ料理」がこれ。

 

帰りの機内食

 

うまかった。デザートがとても甘いところもきちんとタイ風。バンコク滞在中に1回くらいはきちんとした料理店に入ってみるべきだったかと、このときになって思った。

 

機内食を終えるとあとは放っておいてくれるので、暫く窓の外を眺める。窓外はすっかり雲の上で、窓の下の方に雲海が広がっている。TVで見る「空の上」と同じだ。

 

雲はふわふわと波立って、そのさまは浪の花か、或るいは冬山の頂きのように見えた。どちらにせよ肌寒そうな風景だ。機内アナウンスでは地上37000フィート、外気温は零下50度よりも低い温度なのだと言っていた。華氏ではなく摂氏だ。寒いどころではない。

 

黄金色の陽光に照らされる雲の波は神々しく輝いていて、「神界」だとか「仙界」だとか、そういった人知を越えたものが住まう世界がたびたび雲の上を描くことで表現されていることが、納得できたように思う。

 

ぼくは長いこと窓の外を見ていた。ずっと見ていた。外は雲ばかりだったが、飽きることがなかった。身を乗り出して見ていたが、視線を感じて機内の方に顔を向けてみるとひとりのキャビンアテンダントがこちらを見て笑っていた。挙動が子供っぽ過ぎたかなと、そのときだけ少し恥ずかしかった。

 

やがて機内の照明が消えて、周りの座席にいる人たちはみな毛布を被って眠りはじめた。日本まであと3時間ほど。ぼくもそうしようとバンコク行きの機内でしたように座席の肘掛けを上げて、身体を横にした。同じ列の席にすわる乗客はやはりなかったので、好き放題させて貰った。

 

眼を閉じていると浅くだけれど、幾らか眠れたようだ。もう直ぐ日本だ。思うとうれしさがこみ上げてくる。機内TVには航路と日本までの残りの距離が表示されている。残り距離の数字がじわじわと小さくなっていくのが余計にぼくをどきどきさせる。その数字を眺めながら窓の外も見た。少しずつ高度が下がってきて、雲が機体の上に、窓の下には海と陸とが見えるようになる。

 

1645時着陸。夕刻の傾いた陽に照らされた関西国際空港にJL728便は降り立った。機体から降りたぼくが真っ先に口に出した言葉は「あっつー……」だった。渡航前よりも気温は下がってはいたけれど、日本はやはり蒸し暑かったのだ。

 

飛行機を降りて入国手続を取る。タイの出国審査は無事通過したものの、ここで入国を拒否されたらどうしようかと少し不安になる。お前なんぞ日本には要らん、と言われても仕方がないものな、などと考えながら入国審査を待つ列に並んでいた。入国審査は直ぐに通過できたが何故か税関で少し手間取った。

 

「渡航ははじめてですか」
「荷物はこれだけですか」
「タイははじめてですか」
「パスポートは切り替えですか、新規ですか」

 

……何で税関の人がこんなに質問してくるのん?と関西弁で思った。沢山質問されただけで通過できたけれど、ぼくはひどく疲労していてその質問に答えるのが少し億劫だった。

 

空港からはリムジンバスに乗って故郷の街に帰る。帰国を待っていてくれた友人たちに、バスの中から「ただいま到着」のメールを携帯電話を使って送信。今日は平日だしまだみんな仕事をしている時間なのだろうに、「おかえり」や「おつかれ」のメールが次々に返ってくる。何てうれしいことだろう。

 

身体はくたくただったけれど、メールを使えない実家の母には早く顔を見せた方がいいだろうと、返ってきたメールを読みながら思った。渡航前から「向こう(バンコク)から電話もできやんしな」、「言葉が通じやん場所へ行かんなんのは心配やな」、「帰ってきたら電話しなあよ」と何度も繰り返し言ってくれていた。帰宅したら直ぐに行こうと決める。

 

帰宅直ぐに乱暴に荷物を解いて実家に持って行く土産ものだけを引っぱり出して、実家に向かった。風呂を済ませた母が居間でいつものようにTVを点けてくつろいでいた。声を掛けると母は直ぐにこちらを向いたけれど、少し遅れて「おかえり」を言った。

 

土産を渡すととてもよろこんでくれた。「タムナン・ミンムアン」で買った手掌大の組み合わせ籠と、ウィークエンドマーケットで見つけた小さな人形。煙草入れにぴったりだろうと思って買ってきた籠を見た母は直ぐに「煙草入れるのにええな」と言って、テーブルの上に置いてあった封を切った煙草の箱を手に取って籠の中に入れた。

 

でも、術後の経過がよくて術創の痛みはないと話したらもっとうれしそうな顔をした。それはごくごく僅かな表情の変化だったけれど、ぼくには見えてしまった。直ぐに来てよかったと思うと同時に、ほんの少しだけれど、申し訳ないという気持ちも湧いてくる。

 

欠けたところのない身体に産んでくれたのに、これまで大変な苦労をして育ててくれたというのに、わざわざ大金を支払って海外に出掛けてまでその身に傷を付けて心配を掛ける行為が親不孝ではないとは、ぼくだって思ってはいない。だけど、性別適合手術を受けることなしには、ぼくはとても落ち着いて生きてはいられない。

 

あなたに孝行をするために、いまの不孝を暫く我慢してください。すべてを終えたら、きっと、きっとぼくはあなたに恩を返します。

 

母の眼の前でぼくは確かにそう思ったのだけれど、口には出せなかった。

 


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